はじめに
菅義偉総理大臣(当時)は、2020年10月26日、所信表明演説において、「2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、すなわち2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指す」ことを宣言しました。それから700日近く、2050年末までの時間の 6%あまりが経過しました。
環境省によると、2020年度の日本の温室効果ガスの総排出量は、前年度に比べて5.1%減少したとはいえ、11億5,000万トン(二酸化炭素換算)でした(注1)。
注1:https://www.env.go.jp/press/110893.html
脱炭素に向けた施策は進展しているものの、製鉄の過程で鉄鉱石を還元する際に出る二酸化炭素や、畜産に伴って排出されるメタンなど、ゼロにすることは困難な産業もあります。2050年カーボンニュートラルの実現には現用の技術に加えて革新的な技術革新が複数の分野で必要とされるところです。一方で、この夏の猛暑、豪雨などの極端な気象を見ると、技術革新、イノベーションは果たして間に合うのでしょうか? という疑問も湧いてきます。
すでに特許にもなっている気候工学技術
温室効果ガスの削減に拠らない気候変動を緩和する手段として、気候システムに工学的に介入する「気候工学 (geoengineering)」と呼ばれる技術分野があります。例えば、成層圏に微粒子を打ち込んで太陽からのエネルギーの一部が地表に届くのを邪魔する、といった手法が研究されています。
そんなSFのようなことが可能なのか? とも思われますが、実際に1991年6月に噴火したピナツボ火山(フィリピン・ルソン島)によって2千万トンの二酸化硫黄が成層圏に注入され、その影響で地球全体の気温が0.5度低下した、との報告があります。
1991年6月に噴火したピナツボ火山(米国地質調査所webサイト)
https://pubs.usgs.gov/fs/1997/fs113-97/resources/AshCloud.jpg
高さ約10~50 kmの成層圏では、大気は安定していて雨や雪が降ることはなく、注入された微粒子は数年にわたって落下しません。この、成層圏への微粒子注入技術はすでに特許出願されています(注2)。
注2:公報番号:WO2022094269A1 / タイトル:Reflective hollow srm material and methods / 出願人:Sinapu Llc / 出願日:2021年10月29日
出願したのは米国カリフォルニア州にあるSINAPU LLCで、同社は医薬品の受託研究開発を主な事業としています。
ノーベル賞受賞者の論考で潮目が変わった?
いくつかの特許出願がなされているとはいえ、この気候工学の技術は未だ研究開発の段階にあると想定されます。そうしたステージの技術動向を見るために、アスタミューゼではグラント(競争的研究資金)と論文のデータを用います。グラントとは、大学や研究機関などに配賦される研究資金ですが、その採択の可否は、専門家を含む複数の人が、提案された研究プロジェクトを科学的・技術的観点から評価することで決定されます。したがって、採用されたグラントから、「資金を投入する」という判断が下された技術は何か? を窺うことができます。
図1に、研究資金を獲得したプロジェクト(グラント)の数と気候工学に関する論文発表数の推移を示します。グラント件数(赤線)が左の縦軸、論文数(青線)は右の縦軸でプロットされていることに注意してください。発表された論文数は1,449本(2001~2021年)、グラントは103件(2001~2020年)でした。直近の2021年のグラントデータは未公開、あるいはデータベースへの記録がなされていないものがあるので、ここでは表示していません。
図1:気候工学に関連して、研究資金を獲得したプロジェクト(グラント)の数と気候工学に関する論文発表数の推移。赤線がグラント件数で左の縦軸、青線は論文数で右の縦軸に対応する。直近の2021年のグラントデータは未公開、あるいはデータベースへの記録がなされていないものがあるので、ここでは表示していない。
気候工学に関しては、ノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェン博士が2006年に学術誌で発表した An Editorial Essay(注3)が画期的であったと評価されています。
注3:Crutzen, P. J. (2006). Albedo enhancement by stratospheric sulfur injections: a contribution to resolve a policy dilemma?. Climatic change, 77(3-4), 211.
クルッツェン博士はこの論考で成層圏への硫黄注入による反射率の増強について論じ、気候変動のリスクを踏まえた気候工学の研究の必要性を訴えていました。実際に、クルッツェン博士の論考が発表された後の2008年から2011年にかけて、グラント、論文数ともに大きく増加しています。
グラントと論文のアンバランスに見える「ためらい」
図1からわかるもう一つの特徴は、グラントの件数に比べて論文数が非常に多い(およそ1:14)ことです。例えば、量子コンピュータに関する技術では、グラントと論文の比は1:2くらいでした。
図2に、気候工学の中でも最も有望視されている太陽光放射制御に関わるグラントと論文の推移を、全グラント・論文のプロットに加えて示します。太陽光放射制御に関わるものは、グラントでは全体の40%、論文では32%でした。グラントと論文で対象とする技術分野には大きな違いがないといえるので、気候工学に関しては、大学や研究機関などに配賦される研究資金が少ないと言えます。
図2:放射制御に関連するプロジェクト(グラント)数/論文発表数と全グラント・論文の推移。左右の縦軸の対応は図1に同じ。
このことは、気候工学に対するネガティブなイメージが影響しているとみるべきでしょう。人間が意図的に気候を操ることに対する忌避感、悪影響が生じた際の不可逆性、国境を越えて広範囲におよぶ影響、注力すべき二酸化炭素排出削減への努力がおろそかになる可能性など、気候工学の研究開発にはさまざまな反対意見があります。コンセンサスを得ることがむつかしい分野であることから、国が資金の投入をためらう理由はわかります。
下の表は、多額の研究資金を獲得したプロジェクト(グラント)5件です。第5位のSPICEプロジェクトは2010年に開始された、成層圏への粒子注入による気候変動の緩和に特化したプロジェクトです。英国はこの時点で、成層圏への粒子注入に約250万ドルの研究費用を投じることを決断していました。
「タブー」か、「最後の切り札」か?
先に紹介した、気候変動の研究推進に画期的とされるクルッツェン博士の論考は、温室効果ガス排出削減が間に合わない事態に備えて、成層圏への微粒子注入の研究を推進すべき、というものでした。2021年に英国で開かれた国連気候変動枠組条約締約国会議(COP26)では、産業革命前からの気温上昇を「1.5度」に抑える努力を追求する、とした合意文書を採択しました。
この目標は、国際社会が全力で達成を目指し、かつ複数のイノベーションを要する高いハードルです。そして、2022年2月にはロシアによるウクライナへ軍事侵攻が始まり、天然ガスの供給減に苦しむドイツなどが石炭火力発電の再稼働に踏み切るなど、脱炭素への道のりはさらに険しいものとなっています。
現在の気候工学の研究では、気候モデルの中で成層圏への微粒子注入などの工学的処置を与え、影響を計算するものが多くなっています。小規模な試験の実行にも至っていないところですが、研究成果は着実に積み上げられています。この技術に頼る日が来ないことを願いつつも、技術開発を進める研究者は増えていますが、グラントという形で後押しするべきか否か、各国ともむつかしい対応を迫られていることが、論文・グラントのデータから窺えるところです。
さらに詳しい分析は……
アスタミューゼでは、未来に向けて解決すべき社会課題105を定義して、それぞれの課題解決に寄与する技術を整理しています。そして、各社会課題のインパクトを様々な視点から定量評価するとともに、その解決策としてテクノロジーを中心としたソリューション視点で整理し、全体像を俯瞰的に把握できるようにまとめたレポートを提供しています。本稿は、社会課題 「047:気候変動を効果的に緩和・制御する社会を実現する」の一部に対応するものです。
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アスタミューゼ株式会社 広報担当
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