海外では、ISOが人的資本マネジメントに関して指標を整理したガイドライン(ISO30414)の制定や、アメリカではSEC(米国証券取引委員会)が人的資本に関する情報開示を義務化されるなど、「人的資本の情報開示」についての動きが活発化されています。
日本でもついに2023年3月期の有価証券報告書から人的資本に関する戦略や指標などの開示を求める内閣府令が1月31日、公布されました。
しかし、人的資本を巡る開示や評価の仕組みはまだまだ発展途上にあるというのが現場ではないでしょうか。企業と投資家の双方にとって有益な「役立つ」開示にできるかどうかは、まだ手探りの段階だといえます。
そこで今回は、「人間の本質(Human Nature)」をビジネスに活かす組織戦略家集団である株式会社ITSUDATSUの代表取締役・黒澤伶氏に、「人的資本は、開示がゴールではない。人的資本経営に向けて今企業が取り組むべきこと」をテーマにご寄稿いただきました。
人的資本経営とは、人材を「資源」ではなく「資本」として捉えること
人的資本とは、人が持つ知識や能力を「資本」として捉えることです。人的資本への投資は、個人が持つスキルや能力を伸ばし、結果として生産性の向上や組織の成長につながるとされています。人事領域では、これまでは人的「資源」という考え方が主流でした。人的資源は、人を組織のリソース(資源)とみなしていました。
つまり、単なる人件費より効率的に人が持つ能力を発揮できるよう、制度や環境等を整備するという考え方です。
人的資本と人的資源の大きな違いは、この「人」への捉え方です。人的資本は、人を投資対象と見なすため、効率を求めるオペレーション志向ではなく、働きかけによっていかようにでも伸び縮みする創造志向になります。
資源は、天然資源や環境資源という言葉があるように、「既に持っているもので消費されていくもの」という捉え方をします。つまり、企業にとっては人を単なる「コスト」と捉えていたわけです。
一方、「資本」は「価値を生み出すもの」と捉えるので、人材に対する支出も価値を生み出す投資とみなします。当然ながら、投資すればその価値は磨かれ価値が増しますが、投資しなければ価値は下がります。
ここが、人的リソース(資源)と人的資本の大きな違いです。つまり、「人的資本は非常に可変的である」というところがポイントです。
では、なぜ人的資本は可変的であるのか。
それは、人的資本は、「心」を伴う資本であるからに他なりません。
当たり前ですが、人には「心」があります。働く人のパフォーマンスは、その人の心の状態、組織の人間関係などにより、価値が高まったり、低くなったりするのが、人的資本の醍醐味です。
増減しないものであれば開示するのがゴールでも良いですが、人的資本は、まさに生き物のように価値が可変的です。
だからこそ、人的資本を継続的に「開示」しつつ、いかに人的資本をアジャイルで「活かし続ける」かが非常に大事になります。これが、今後の企業の競争力に直結します。
今、なぜ人的資本経営なのか
人的資本経営は、ものすごく簡単にいえば「人を大切にしましょう」といわれます。「企業は人なり」とよくいわれもしますが、日本特有の終身雇用・年功序列を代表するような「社員に優しい」スタイルが競争力の源泉だと世界から注目されたことも確かにあったように思います。
しかし、時代も変わり、経営スタイルも変わり、働く人の価値観も大きく変わる中で、「人を大切にする」仕組み(概念)が、新たな時代には適合しなくなりました。
まさに、一人ひとりの人材と向き合い、その価値を見出し続け、伸ばす経営を実践してきたかが今問われています。
「大切にする」というのは「働きやすい職場を用意して、優しく扱う」ということではなく、「一人ひとりがもっと多くの価値を生み出せるようになる“攻めの経営”」そのものなのです。
ではなぜ、今、人的資本経営なのか。3つの視点を挙げさせていただきます。
①経済的視点
テクノロジーの急速な進歩、多様化する顧客ニーズといった外部環境の急激な変化に伴い、今や企業価値の源泉が徐々に「有形資産」から「無形資産」に移行しました。また、別の言葉で言い換えると、「財務資産」から「非財務資産」へと移行しました。
その無形資産であり、非財務資産の中核が紛れもなく「人材」です。したがって、人材の価値を高めれば、それが企業価値を持続的に押し上げることになります。
年々、投資家の判断指標は「非財務資産=見えざる資産」を評価する傾向が強くなっています。
2008年のリーマン・ショックを契機に「財務諸表のみで企業価値を評価すること」に警鐘が鳴らされ、投資家が企業への投資プロセスにESG(環境・社会・ガバナンス)評価を導入する流れが生じ、日本でも盛んにESGといった用語が聞かれるようになりました。
アメリカでは2020年上場企業に対して、人的資本の開示が義務付けられ、財務諸表には表れない「見えざる資産」の重要性が増しています。
日本は、この欧米の後を追いかけるかたちになります。
②組織マネジメント視点
昨今、DXを含めた産業構造の転換期において、企業における「イノベーション」の必要性が各所で叫ばれています。イノベーションと対極をなすのが、「管理」だと考えていますが、管理型マネジメントはかつては合理的であり、時代の要請からつくられた組織モデルとして機能してきたように思います。
しかし、今は「創造」こそが長期的に事業を継続させるための決定的因子になってきました。
では、その創造のための源泉は何かというと、「人の内発的なエネルギー」です。この内発的なエネルギーこそ、「ヒト・モノ・カネ・情報」の経営の主な資源の中で圧倒的に不確実性が高く、「化ける」可能性を大いに秘めています。
野心的なビジョンや社会がよくなっていくという日々の実感のもと、多様な創造性のある社員が相互の刺激を与え合うことと、何より、社員の創造性を失わず、アイデアとアイデアの突然変異を生む創造的空間へと企業はアップデートする必要があります。
③世代価値観の視点
Z世代やアルファ世代の台頭も見逃すことができません。2025年には、Z世代の労働人口が半数になるといわれています。この時代の中で、これまでの世代とZ世代・アルファ世代が決定的に違う点は、「社会的自律」がすでにされており、感性が豊かということではないでしょうか。
②の観点と重複しますが、すでに自律している社員に対して、管理をするとどのようになるでしょうか。やはり、内発的なエネルギーは萎縮してしまいます。
なぜなら、人とは本来、「自分の思う通りに動きたいもの」だからです。自律をしているなら、尚更です。
この自律心をすでに持っている人材の獲得と、自律心を持っている社員を活かす企業側のマネジメントをアップデートすることが必要になります。
「開示」がゴールになってはいないか?
「人的資本可視化指針」では、人的資本の開示事項には2種類があるとされています。1つは投資家や従業員などのステークホルダーが同じ指標を用いて企業間比較するための指標です。例えば、下の画像は国際的ガイドライン「ISO30414」が指標として掲げている11領域と一部の具体的比較可能事項です。引用 日本能率協会マネジメントセンター
もう1つは「自社特有の経営戦略やビジネスモデルに沿った独自性のある取組・指標・目標」に関する開示です。
企業のビジネスモデルや経営戦略と開示事項の関連性を、ステークホルダーに対し、「自社の取組・指標・目標」が独自性があるかという点、経営戦略との強固な紐づきがある点をしっかりと訴求することが重要となります。
この自社が持っている独自性のある戦略こそ、本当の意味での「見えざる資産」です。
だからこそ、ステークホルダーが求めているのは、単にデータを網羅的に掲載したレポートではありません。「開示」がゴールになってしまっている企業は、データを用意するだけに終始してしまっているように思えます。
やはり大事なのは、人材に対する考え方と戦略、具体的な取り組み内容をデータと共に一貫性のある一連のストーリーとして伝えることです。
そのために、急がば回れではないですが、自社の経営理念や人材マネジメントポリシーにおいて、企業が従業員との間で何を大切にしているか。また、従業員に何を約束しているか。などをCHRO(最高人事責任者)中心に策定するのが第一になります。
さらに、これらの動きは「継続的に」やり続けることも同時に大事です。
人的資本の価値を高める3つのステップ
ここからは、具体的に人的資本の価値を高める3つのステップについて解説します。一般的に人的資本への投資というと、能力開発に関する研修を想起される方も多いのではないでしょうか。もちろん、とても重要なことですが、単に能力開発のプログラムを提供すれば人的資本の価値が高まっていくというわけではありません。
人的資本の価値を高めていくには、何より「持続性」がテーマになります。
そのためには、企業の従業員に対する考え、人材を活かすための環境、具体的な人材への働きかけのすべてが、ミッションビジョンの実現に向けて一貫性を持って整備されている必要があります。
①「人材」をあるがままに活かすと決める
当たり前ですが、組織は人によって構成されています。そうであるからこそ、人が活性化せずして、人的資本の向上はあり得えないといえます。人間には様々な欲望があり、日々様々な感情の狭間で反応的に揺れ動いています。
この、人が持つ「心」の活性化こそが、人的資本の価値の向上につながります。
そして、心の真の活性化のためには「行動」と、それに伴う「カタチ」(=創り出される現実・成果など)が必要です。
つまり、元気な心で行動を起こしたら、望む現実を創り出せた。・・・という体験そのものが、人を本質的に活性化させます。
そういった人の集まりにより、そして、そういった人の相乗効果(シナジー)により、組織は本質的に活性化していきます。
しかし、組織活性化のための方策として、よくありがちなのが「カタチ」から入るものです。つまり、組織における仕組みや制度を変えることで、外側から組織を活性化しようというもの。
例えば、「人事制度の変更」、「人事システムの導入」、「リモートワークやフルフレックス制度の導入」などが挙げられます。
「従業員を満足させるための賃金制度を構築しなければ」
「やはり今は、MBOではなくOKRを取り入れるべきだろうか」
「職能等級制度がいいのか、それとも役割等級制度がいいのだろうか」
上記のように、外側の仕組みから変えようとすることが多いのが実情ですが、残念ながら、枠組みなどのカタチで人的資本が向上したら、これほど容易なことはないです。
大切なのは、その枠組みに「人の心がついていけるか」が大事になります。
②CHROを設置し、CEOと全社的な経営課題・組織課題について対話をする
そして、CHRO(最高人事責任者)を設置し、CEOと全社的な経営課題・組織課題について議論を行うことが大事です。CHROは企業に存在する数ある役割・ポジションの中でも、特にCEO(Chief Executive Officer:最高経営責任者)とCFO(Chief Financial Officer:最高財務責任者)と深い信頼関係を構築する必要があります。
企業自体が人的資本を高めていくためには、「CEOがどのくらい人材について高い意識を持っているか」が大きな分かれ目になります。
しかし残念ながら、過去数十年の経営の定石により、短期業績にインパクトを与える売上や利益などの財務施策が最優先され、人材に関する取り組みは後回しになることが多いのが現状です。
人材の鍵を握るのは、やはりCHROの存在です。CHROには、CEOに自ら人的資本の価値を訴求し続け、さらに数字でも証明し続ける地道な活動と、CEOに真正面から意見を発言する勇気が必要となります。
③組織の命運を握る「要となる人材」と「要となるチーム」への集中的な働きかけ
人的資本を高めるために、どのような項目から着手すれば良いのか。もちろん企業の状況によって違ってきますが、ITSUDATSUでは、組織の命運を左右する「個人」と「チーム」に注目し、「人的資本の価値向上=要人材が増える・要チームが増える」と考えています。人的資本が着実に成長していくためには、コアとなる軸が必要になります。では、コアとなる軸は何かというと、「コアとなるべき人材」です。
このコアとなるべき人材を弊社では「要(かなめ)」と呼んでいます。
この要人材同士による「組織の最重要課題」について話し合う場を創ることをおすすめします。ここで大事なのは、「要人材同士」の一歩踏み込んだテーマで対話をすることです。
例えば、我々の役割・使命・価値を本質的に探究し合うテーマで話し合いを行います。この話し合いの中で、自社が持っている独自の人材マネジメントポリシーが発見されることにもつながりますし、再確認することができます。
本来は上記のような「対話」が、日常業務におけるミーティングで行われるのが理想ではあります。
しかし、ビジネスの現場だと思考と解釈、評価するモードになり、無理に発想をジャッジしてしまい、大事な発想が捨てられてしまうことが多いため、多くの企業では実現可能性は低いケースが多いのが実情です。
そのため、まずは通常業務から外れた場所で始めると、結果的に成果が早く出るケースが多いです。
例えば、研修として始めても良いし、勉強会やオフサイトミーティングとしても良いため、月に1回、まずはコアメンバー(要人材の集まり)のみで、語り合いの場を創ることをおすすめします。
その後、その影響を徐々に「自然な流れによって」全社に広げていくことが、人的資本経営においては大事になります。
このように、最初の要人材をきっかけとした自然な「飛び火」を尊重することは重要です。自然な「飛び火」から生まれるものは、その後の企業活動を新たなステージに導くことがあるからです。
意図したプロジェクトよりも「飛び火によるプロジェクト」こそ、その組織ならではのビジョンやミッションに基かれた真の創造性を発揮するものであると考えています。以上、人的資本経営に関する考察を行ってきましたが、国内の人事市場において、トレンドとなるようなトピックスであるのが喜ばしい反面、「人的資本の情報開示」自体にゴールをおいている印象を受けざるを得ないのが現状かと思います。
人的資本の開示がゴールになってしまっては非常にもったいないと感じており、人的資本経営の本質は働く一人ひとりの活性化です。つまり、一人ひとりの「心」の活性化です。そして、そのエネルギーを企業の中長期的な価値向上につなげることにあります。
ぜひ、本記事を参考に自社独自のユニークな人材への取り組みを行っていただけましたら幸いです。
<著者プロフィール>
黒澤伶
株式会社ITSUDATSU
代表取締役
早稲田大学人間科学部卒。デル株式会社(現:デル・テクノロジーズ株式会社)、株式会社ビズリーチ(現:ビジョナル株式会社)、コーチングファーム取締役を経て、株式会社ITSUDATSUを創業。「ITSUDATSU(非直線的な現象)を再現性の高い世の中にする」という大義の下、要人材を起点とした独自の組織活性方法で累計300以上のプロジェクトを推進。現在、複数社の取締役CHRO(非常勤)を歴任。